水分遺跡

田主丸で二重環濠が発掘され、23日に現地説明会があるとのことで、小雨降るあいにくの天気のなか、相方にたたき起こされてGO!!前日仕事で午前様だったので、半分朦朧としていたのだが、こういうの観ると頭がちゃきっとするのよね。



手前の白線と説明のお兄さんがたってるところの後ろが二重環濠になっているのがおわかりだろうか。ここはちょうど二重環濠のカーブのところにあたり、まだ一部分だけが発見され、とりあえずの説明会となった。丸い穴ポコは柱の跡だと思われる。耳納山地から筑後川方向に張り出したゆるやかな丘陵地帯に、弥生前期くらいから平安時代までの複合遺跡だという。

吉野ヶ里、平塚・川添、そして小郡、二重環濠をもつ集落跡がぽつぽつ発掘されているが、ここの遺跡が注目されているのは、環濠の端のところで発掘された竪穴式住居跡からとても興味深いものがそっくりそのまま出たから。


説明のお兄さんがいうには、火事か地震で家がつぶれ、生活の様子がそっくりそのままわかる形で残っていたことで、かなりおもしろいことがわかったんだそうな。(木の燃えた跡がないのでおそらくは地震だろうといってた)


この住居は入り口が南向き(北風が入ってこないよう)、真ん中に大きな柱、柱の下には、普請するときに青銅製の鍬が埋めてあり、おそらくは家が末永く無事であることを祈ってそうしたのではないかという。今も昔も人の祈りは変わらないのね。



入り口のすぐそばに、鉄の鏃を持つ弓矢、とがった骨をつけた棒状のものがまとめて立てかけてあり、そのまま倒れた形で千数百年の時を刻んだらしい。



部屋の隅に土器や甕が並べられていて、ガラス製のネックレスや勾玉、そして米が入れられてた。かなり豊かな土地柄だったように思う。



注目すべきは、ここが何らかの工房または職人が住んでいたところらしいということ。甕を鉄製のもので縦にすぱっと2分割して、そこに貴重な水銀朱がはいっていて、こういう使い方をしていたのが見つかったのは初めての事例だという。


ベンガラや水銀朱はこの当時、甕棺の内部に塗ったり、祭祀用の甕に塗ったりしたもので、中国地方、徳島、三重などの産地から、瀬戸内海を渡り、日田、筑後川経由で運ばれたと言うことが推察されるとのことで、これらのことから、筑後川を使っていろんなところを交易をし、物流がさかんに行われたことがうかがえるのだそうだ。特に水銀朱は丹生と呼ばれ貴重なものだったらしい。防腐作用があるとかで日本の金属文化ではこと重要な鉱物だ。(化学があんぽんたんなのでつっこまれるとなにもいえない)ベンガラは天然の酸化鉄。
古代人にとって赤は、神聖で特別の色だったようだ。




耳納山地をバックに目の前に広がる筑後川、豊かな実りを約束された水田。ときに交易の船が行き交って、人々が忙しそうに荷を上げ下ろしていく。ここはとても住みやすい良い土地だったのだろう。地震で家が壊れてもひとびとはここに長く住み続けた。そんな風景が広がる。あの美しいネックレスをしていたのは、職人本人だろうか?彼の誇らしい矜持がみえるようである。



ベンガラや水銀朱が見つかったということは、近くに墓があるということで、環濠の中心に何があったか、あるいは近くに首長の墓があるのかどうか、これからの発掘を待たねばならないが、久しぶりに卑弥呼のお宝を探す会、会長(自称)の血が騒いだのであった。