暦について考える

1月14日に行われるという10尺の竿で、月の影を測り、占象する竿例し神事があるという赤司八幡宮



神事は夜に行われるだろうから、正確な時間を知りたくて、やって来たのだが、あれっ、誰もいない・・・・。それにしても変わったしめ縄。真ん中に矢が立ててある。



空を仰ぐと三日月・・・・もしかして旧暦の1月14日??満月でないと月の影なんて測れない・・・。帰って調べたらやっぱり旧暦に行われる。ああ、勘違い。旧暦の1月14日は、新暦の2月の23日、もうややこしいなあ。



ここ最近、暦のついて考えることが多い。去年「天地明察」という江戸時代の改暦を題材にした映画が封切りされた。映画ではなく本で読んだが、暦を作ると言うことは、正確な天体観測、複雑な天体の軌道の計算、測量技術、当時の科学力を結集した末にできあがるものであったらしい。


暦の発祥は古代エジプトと言われる。ナイル河の氾濫の時期に周期性があることから、天体運動の観測、高度な計算を基底にして暦はできたとある。農耕が中心だった社会では、気候を予測する、種まきや収穫の時期を知ることこそが、社会が生き延びる重要なファクターだったに違いない。
さてこの暦、太陰暦太陽暦、金星暦、太陽太陰暦明治維新前)、グレゴリオ暦(今の暦、太陽暦の1つ)、と様々だ。


天地明察」では、中国から伝来した太陽太陰暦鎖国体制のなか、ずっと改変されず使われ続け、実際とあわなくなった(日にちがずれてきた)ことから、日本独自で測量・計算して苦労して、新たな暦を作り上げる過程が描かれている。


暦は、今でこそ、カレンダーを買えばそれですむが、古代では、国の根幹に関わる重大な意味をもっていた。


例えば、中国。中国で言う「天子」とは天命を受けて自国のみならず近隣諸国、諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主のことをさし、地と天の支配(時の支配といって差し支えないか)ができて初めて天子だった。なので、暦をつくるということは、国のトップシークレットで、天子だけが近隣諸国に配ることのできるものだったのだ。19世紀欧米列強によって清王朝が滅亡するまで、冊封という制度によって東アジアの近隣諸国を支配する関係が続いたのだが、


臣の立場にある近隣諸国は、
1、臣の名義で「土地の産物=方物」を献上、つまり貢ぎ物、それも決められたルートを通って決められた期日に朝貢するという取り決めがあった。
そしてもうひとつ、
2、正朔を奉ずると言って、天子の元号と天子の制定した暦を使用すること
などの条件がだされた。土地などの実質支配はそれぞれの諸国が行うのだが、称号・任命書・印章などの授受を媒介として「天子」との名目的な君臣関係を結ぶというのが、冊封の中身になる。


日本と中国の関係を考える上で、これはとても興味深い。日本は武家社会になってから、中国の冊封体制の外にあったのだ。


日本の中で権力闘争があるたびに、中国の権威を借りようとして、例えば、南北朝南朝とか足利義満とかが、冊封体制にはいろうと朝貢を画策したが、そのたびに在野の反対勢力から潰されるという事実があったようだ。(邪馬台国が狗奴国と敵対していたのも、こういう背景があったのではと勝手に妄想している。)



暦の渡来は、603年に仏僧により中国の暦が伝えられたということになっている。が、じゃあその前に暦はなかったのかというと、どうもずっと自力で作っていたように思う。神社や遺跡をまわるうちに、古代の人々がかなり正確な暦をもっていた、イコールかなり正確な太陽や星の観測を試みていたという痕跡が窺える事実にぶつかることがあるからだ。
卑弥呼はその名のとおり日を見る子、生涯のすべてを天体を観測することに費やした人ではなかったんだろうか?とこの頃思うようになってきた。そしてそれが外れたり、あるいは天変地異が起こったら、死をもって贖うほどの重要な役目だったのではないかと思う。
農耕社会において、作物の出来不出来は、その国邑の運命をも左右する一大事だったはず。
暦を制した者が政治を制した・・・・。そういう考えが湧いてくる。





この神社の筑後川対岸には月読神社。
月読みとはその言葉通り、暦を意味し、月を観察する部族ではなかったか?
そして物部氏。希有な測量技術を有する集団であったようだ。物部氏に伝わる10種の神器は、どう見ても何かの測量器具にしか見えないものが含まれる。



大木の先にくくりつけられた竿。



なにやら文字が書かれている白い旗がはためいていた。最近、旧暦が見直されているという。日本の季節・農事にあっているからだと。私もそう思う。
さて今日は大寒。寒さが極まるころ。そして蕗の花咲くとある。

うちでは水仙の花が咲いた。