水神

筑後川と呼ばれるようになったのは、近世のことで、もともとは千歳川(千年川)、あるいは一夜川(一晩のうちに流れがかわってしまう)と呼ばれていた。筑紫次郎と言われる日本有数の暴れ川だ。


EPOMさんから、「水神」帚木 蓬生著を勧められ、年末からぼちぼち読んでいた。筑後川という水に恵まれているはずなのに、土地が川よりも高い台地上にあるため、水の恩恵を受けられず、桶で汲んでは田畑に流すという過酷な作業を強いられていた村の、厳しい幕藩体制の中で費用も労力も村持ち出しで水路を作った話が描かれているのだが、今までただ上っ面の知識で知っているだけだったと本を読んで痛切に感じた。文中に大好きな吉井町の、知っている地名が幾つもでてくるし、田植えの時期には、石積みの用水路をなみなみと水が流れ、田畑が潤っていく風景をよく目にしていたので、休みにちょこちょこ出かけては、確かめ確かめ読んだ。


大石堰



南岸に白い立て看板のところに取水口があり、看板には五庄屋遺跡とある。




実は、5人の庄屋が苦労して用水路を作ったという話は聞いたことがあったが、いつも見慣れた風景と結びつかなかった。
取水口からどうどうと流れ込む水。




途中、陣屋川に放水し、今の時期には、水はほとんど流れないようにしている。田植え時期になると、赤い棒のところまで水が豊かに流れる。




角間の天秤。ここで水が別れる。今の時期だけ、川底の丸石が見ることができる。





命を賭けて水路を作った5人の庄屋は、神様として長野水神社に今も大事に祀られている。





近年、このあたりは市町村合併で、久留米市への参入の話が持ち上がったが、結局断った。吉井町うきは市として独立自尊の道を歩むことになったのは、積年の気概がまだ残っているからではと思う。今私が住んでるところもまた久留米市の対岸の町だが、もとは久留米市の外の村落だった。越してきたばかりの頃、大きな台風が町を襲い、電線が折れ一週間ばかり停電が続いた。町の人もこんな台風は生まれて初めてという被害甚大の台風だったが、やっと一週間後にやってきた電線工事のおじさんを取り囲んでつるし上げる風景に出会ったことがある。

「川向こうだからといって後回しにするのか」「市内はあっという間に復旧したのに、こっちは一週間もほったらかしだぞ、どうなってるんだ。」

つるし上げられたおじさんが、申し訳なさそうに、「あちこちで電線がダメになって、自分も甘木からでばって手伝いにきたんですよ」というと、まるで手のひらを返したように態度ががらっと変わり、「甘木から!それはそれはご苦労なことです。」「遠くからありがとうございます。」と打って変わって甘木のおじさんを口々に慰労する。

「久留米商人は札束で頬をぴしぱししながら商売する」という悪口も聞いたことがあるし、夏にそろばん祭りという、そろばんをがしゃがしゃ鳴らしながら踊る祭りがあるのだが、ここらあたりの地の人は、冷めた目で見ているように思う。有馬藩に搾取され続けた農民の怨嗟が、いまだこういう形で残っているように思える。





恵みの水をもたらしてくれる筑後川。あるときは溢れ、人も家も家畜も流してしまう筑後川。水をめぐる諍いも多かったと聞く。

うちからちょっと上流に行くと、人身御供の歴史をもつ集落もあり、今ではここしか残ってないが、筑後川流域でいくつか行われていたという話もあるから、大河の傍に暮らすとういうことは、洪水と隣り合わせのリスクを常に伴うということだ。




筑後川の川そばに、こういう石の祠がいくつもある。お水神さまと呼ばれているらしい。正月を迎えると赤い布きれは新調され、竹も新しい物に変わっていた。雨の季節になると、竹の先に縄で編んだ籠をぶら下げたものがいくつも川傍に立つ。




これが何なのか、ずっと謎だったのだが、お水神様へのお供え物だという。今も川への祈りがこういう形で続いている。


まさに川は生き物。昨年の大雨で川の中の砂地の様子もずいぶんと変わったところが有り、うちの近くの土手では大規模な改修工事が進んでいる。
川と人との戦いはずっと続いていくのだろう、と思う。




たくさんの恵みと時に恐ろしい災害を引き起こす筑後川・・・・水神さまは、女神だった。