天満宮の志賀社

予想はしていたが、やっぱり梅はほとんど終わっていた太宰府天満宮。終いの梅がちょびっとだけ。早く来れば良かったが、寒い寒いと先伸ばしていた。


今日のお目当ては、池にかかる太鼓橋のたもとに鎮座する末社、志賀社。

他にも末社はいくつもあるけれど、際だって、精巧な造りで国の重要文化財だ。昔は黒漆塗り、金製装具をふんだんに使った豪奢なものだったらしい。

和、唐、天竺の3様式をもって構成されていると言うが、素人目にも文化財に値する精巧で立派な造り。昔の職人さんたちの意気が伝わるような・・・。

何故天満宮に志賀社・・・安曇族の奉ずる志賀社があるのか・・・・去年、相方が太宰府宮司の話を聞く機会があり面白い情報を仕入れてきた。この宮司さん、ご先祖は、道真の遺骸を牛の背に乗せて運んだお付きの者だったという。

道真が無念の壮絶な死を遂げ、都では道真の祟りが囁かれ、天満宮はその都の中枢部の寄進によってできた。
箱物は作ったがそれで後は知らぬと放り投げたらしい。(こういうのって今も昔も変わらないのね。)維持継続に立ちゆかなくなって、周りの神社に支援を頼んだらしいがことごとく断られた。そこで手をさしのべたのは安曇族の志賀海神社、ただ1つ。ここと結びついてその当時の中国との貿易で立て直したらしい。安曇族は全国に展開していたようで、長野県安曇野、愛知の渥美半島、それから茨城の鹿島。海洋技術だけでなく、鉱物資源の発見・採掘にも関わっていたようだ。以前行った、久住の白丹(しらに)温泉。白丹というから水銀かなんかんだろうが、この町営温泉館の建立名簿の70%は志賀という名前が連なっていたから、ここも安曇族と関わりの深い土地なのだと思う。



安曇族と組んで、公の貿易とは別に、中国南部、昔、呉と言っていた地との私貿易でかなり隆盛を極めたそうだ。平清盛に貿易を指南したのもこの勢力だったらしい。鎌倉幕府を開いた源氏から北条氏に権力が交代したのも、この中国との貿易があげる巨利とその勢力が裏にあったと考えられそうだ。ちなみに宇佐神社も平家勢力と結びついて、貿易の利の恩恵に預かっていたというから(富貴寺住職情報)、行った先で、教科書には載らない裏話を聞けるのも面白い。これだから神社巡りはやめられないのかも。


日の入りが6時を回るようになった。もうそれだけで嬉しい。


早く、春が、ほのあったかい春が来て欲しいもんだ。